旅行作家・小竹裕一の〈世界・旅のアラベスク その8 インド編〉

こんにちは!

5月ももうすぐ終わり、、、新学期始まってから2つ目の小竹先生の旅行記です!

今回はインド編の最終回で、インドでの山あり谷ありの旅が終わりになります。

インドに行ったことない人も、今までインド編を全て読んだらちょっとは知ることができるし、興味も湧いてくるはず!

次回からは違う場所の旅行記が始まるので、それまでに今まで行った場所もおさらいしながら楽しんでね!

〈世界・旅のアラベスク〉

(その8)

『インドで「バチャーオー(助けて)!」と叫んだ日』 

〜“オドロク心”をとりもどせ〜

↑カースト制度によって床屋になることを運命づけられたインド人青年


人間は同じような日々のくり返し、つまり〈日常性〉の中に埋もれてしまって、生きるうえで何かに“オドロク”ことを忘れがちである。

旅の効用、とくに海外旅行のそれは、知らないうちに鈍磨しているわたしたちの日常感覚に、フレッシュな刺激を与え、みずみずしい「オドロク心」をとりもどすことにある。

今回のインド旅行で、わたしはいろいろなことに驚き、久しぶりに新鮮な感性で物事を見ることの大切さを思い出した。

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わたしが本物のインド人と接してまず驚いたのは、彼らの背の高さだった。デリーの地下鉄に初めて乗ったとき、満員の車内は若いインド人男性でいっぱいだったが、わたしは彼らの人垣で“視界ゼロ”の状態になってしまった。

また、市内の大きなホテルや観光地でトイレに入ったときも、目を見張った。これは、世のご婦人方にはとうてい理解できない世界なのだが、小用を足すための“アサガオ”(男性用便器)の位置が、日本と比べてかなり高いのである。(デリーでオランダのトイレを思い出した。オランダ人男性の平均身長は184センチ!)

身長172センチ(日本人男性の平均身長!)のわたしが少なからず困惑を感じるのであるから、背が比較的低めの日本の殿方は、インドへ行く前に、ツマ先立ちして用を足す練習が必要なのかもしれない。

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そのとき、わたしが疑問に思ったのは、長年暮らしたシンガポールで、インド系の人たち(全人口の約1割を占める)がそれほどうわ背いがあるとは思わなかったことだ。

日本へ帰って調べてみると、意外なことがわかった。インドには、大きくわけて二つの種類(人種)の「インド人」がいる、というのである。

ひとつは、北方からインド亜大陸に入ったアーリア系のコーカソイド(白人種)の人びと。この人たちはヒンディー語、ベンガル語、パンジャーブ語、マラーティー語などのいわゆる「インド・ヨーロッパ語」を話し、おおむね背が高くて、欧米の白人のような顔の人も結構いるという。

これらインド北部に住むアーリア系のインド人に対して、南部の人びとはドラヴィダ系の先住民で、タミル語、カンナダ語、テルグ語、マラヤーラム語といったインド固有の言語を話している。

このドラヴィダ系の人たちは古モンゴロイドで肌の色が黒く、平均身長が大体160〜165センチといわれ、小柄な人が多い。

日本では、タミル語と日本語に類縁関係がある、という学説もあるが、戦時中に日本軍がシンガポールを3年半占領・支配したとき、小・中学校の日本語クラスでいちばん会話の上達がはやかったのはインド人の生徒だった、という話がある。

わたしが長年シンガポールでつき合い、観察したところでも、タミル系のインド人は北部のインド人とは対照的に、性格がおだやかで、なんとなく日本人に感じが似ている人が多かった。

そのためか、現在インドに進出している日本企業の工場はそのほとんどが南部にあり、タミル語圏にあるチェンナイは日系企業の最大の拠点になっているという。

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さて、この紀行シリーズのなかでたびたび述べているように、わたしは外国へ旅に出ると、できるだけその土地の床屋に行ってみることにしている。床屋には、その土地のお国柄が出ていることが多いからだ。

今回のインド旅行でも、タージ・マハールのあるアグラの町で、“床屋探索”をこころみた。

目抜き通りに沿って建つ古びた長屋の二階に美容院らしき店があった。さっそく階段を上がって、開けはなたれた広い入口から中に入ると、若いインド人女性7〜8人がカラフルな制服を着て働いている。

〈ヤッタ!〉と思い、手のすいている20歳前後のインド人美女に散髪料をたずねると、「ノー、ノー、ダメです」とのこと。なんでもこの美容院は女性専用なので、男は入店禁止なんだという。

〈アーア、ザンネン………〉、とんだヌカ喜びに終わってしまった。

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それで、彼女に「男性用のバーバーはどこですか?」ときいたら、「アソコよ!」と同じ階の小さな店を指さした。

ナルホド、そこは確かに床屋になっていて、散髪台が三つ置かれている。長袖のチェックのYシャツを着た若い男性に、「頭をかってもらえませんか?」と英語でたずねると、「オーケー、オーケー!」との答え。

他に客がいないので、おもむろに散髪台にすわり、白いエプロンをかけられた。

ところが、すぐ散髪が始まるかと思いきや、「ちょっと待って…」という。〈エッ、どうして…〉と思いながらしばらく待っていると、50年配のインド人男性がやおら現れた。

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きけば、彼の実の父親だという。この父の親方がわたしの頭の毛をとよく見てから、息子にアーダ、コーダと調髪法を指示した。

いよいよハサミとクシを手にしての床屋仕事が始まった。彼は20代前半ぐらいの年恰好だが、けっこう年季が入っているみたいだ。ハサミの手さばきが水ぎわ立っている。

10分ほどしたとき、30才ぐらいの青年がブラッと店に入ってきた。〈お客かな…〉と思って顔を見たら、床屋の青年とよく似ている。

「ブラザー?」とたずねると、「イエース」との答え。なんと、この兄もここで働いており、日暮れすぎからはおじさんも手伝いに来るという。

〈一族で床屋をやっているのか…〉と思ったとき、シンガポールでわたしがよく利用しているインド人のマネー・チェンジャー(両替商)のことを思い出した。この店も、三人兄弟で両替ビジネスをきり回しており、最近親類のいとこ(男性)も加わっていた。

いろいろ話をきいてみると、インド人がよく親族仲間でビジネスをやっているのは、驚いたことに、有名なあの「カースト制度」と関係しているというのである。

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インドのカースト制度といえば、高校の世界史の授業で「四つの身分」を習ったのをおぼえている。一番上位に「バラモン」(ヒンドゥー教の僧侶)がいて、その下に「クシャトリア」(王、戦士)、「ヴァイシア」(地主、商人)とつづき、最下位に「シュードラ」(農民、使用人、奴隷)がくる。これら四つの身分は、「ヴァルナ」とよばれている。

ところが、カースト制度はこのヴァルナだけではなくて、同じヴァルナであっても、その人の職業、出身地や血筋(血縁関係)によって、じっさいの身分はさらにこまかく区分けされているというのだ。

これを、インドでは「ジャーティ」とよび、床屋のジャーティ、清掃業のジャーティ、羊飼いのジャーティといったように、たくさんのジャーティがあり、その数はなんと5000ぐらいにもなるそうだ。

かつてはどのジャーティに属するかによって、つき合う友人や結婚相手も決まっていたという。しかし、近年の急速な経済発展と教育の普及によるインド社会の流動性の増大によって、長い歴史のなかでヒンドゥー教と共に形成されてきた諸々のジャーティも、いよいよ機能しなくなりつつある、といわれる。

なお、アグラの床屋の料金は、15ルピア(約300円)ポッキリであった。

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さて、2週間あまりのインド旅行も終わりに近づいた。帰りのヒコーキに乗るためにデリーへもどり、最終日にはもう一度デリーの町を歩き回った。

最後の日とあって、お土産を買うなどいろいろやることが多く、夜ホテルにもどる時間が大幅におそくなってしまった。

〈これはちょっとヤバイな…〉と思い、いつもよりあせっていたことが、いま考えると大きな災いをよび込んだ原因だったようだ。

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地下鉄の駅を出て、わたしは急ぎ足で宿のホテルをめざした。あたりはすでに暗く、通行人もほとんどいない。

いつものように、大通りを”命がけ”で渡って、高速道路の下につくられた一般道にすすんだ。

この道にはちょっとした歩道がついていて、排水溝の上に幅2メートルぐらいのコンクリートの坂をズラーッと何枚もかぶせた部分と、幅50センチほどの土の部分から成っている。ふだんわたしはこの歩道をあるかず、車道の歩道寄りのところを歩いていた。

とこらが、この日はあいにく夕方に雨が降り、車道のあちらこちらに水たまりができていた。

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街燈がついていないので、明かりは上の高速道路を走る車のライトのみだ。歩道の土の部分にも水たまりができているようなので、側溝の石ブタの上を歩くことにした。

50メートルぐらいすすんだころだろうか、わたしの身体は突然支えを失い、ドッと落下した。側溝の石ブタのなかに半分破損したしたものがあり、その穴から下に落ちてしまったのだ。

空中を落下するとき、よく昔あったことが映画のコマのように去来するというが、そういうロマンチックなことは全然なかった。真暗な世界にはまり込んでしまったのだ。

幸い、冬が終わったばかりだったので、側溝の底には枯れた落葉がかなり降りつもっていて、クッションの役目を果たしてくれた。奇蹟的に、どこもケガをしないですんだようだった。しかし、この穴からどうやって脱出したらよいのか。わたしは考えをめぐらし、とっておきのヒンディー語で「バチャーオー(助けて)!」、「バチャーオー!」、「バチャーオー!」と3回つづけて叫んでみた。

が、まことに残念なことに、誰か助けてに来る気配はまったくなかった。

〈ヤレヤレ…。なんでこんな目にあわなければならないんだろう…〉と思いながら、わたしは必死の力をふりしぼって側溝の外へはい上がった。

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地上へ出て、新鮮な空気を胸いっぱいに吸いこんだ。すこし心が落ちついてきたら、左手の指に鋭い痛みを感じた。頭上を走る車のライトの薄明かりで指を見ると、血が流れていた。落ちたときに、コンクリートの欠けたところに手をぶつけたのだろう。

インドの旅の最後の最後でこの厄災。ホテルへ向かって、暗い夜道をトボトボ歩きながら、わたしはインドという国について改めて考えた。

首都のデリーですら、よる安全に歩くための街燈がまともについていない。そして、破損した側溝の石ブタをすぐに補修するだけの行政力もない。

「インド人はIT(情報技術)につよく、インドは21世紀の大国だ」とよくいわれるけれどいまの実態は「巨大な開発途上国」といったほうがいいのではないか。

「インドはまだまだだ、インドはまだまだだ…」と低い声でお経のようにとなえつつ、わたしは雨模様のインドの深い夜空を見上げたのであった。

〈完〉


〈インド篇・参考文献〉

 堀田善衛『インドで考えたこと』 (1957)岩波新書

 重松伸司・三田昌彦(編著)『インドを知るための50章』(2003)明石書店

 山田真美『運が99% 戦略は1% インド人の超発想法』(2016)講談社+α新書

 山下博司『インド人の「力」』(2016)講談社現代新書

 中島岳志『インドの時代〜豊かさと苦悩の幕開け〜』(2006)新潮社


インド編の最終回、どうでしたか??

次回からはドバイ編!お楽しみに!


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